『逃げ水』の歌詞、"逃げ水"のウィキペディア説

逃げ水とは、風がなく晴れた暑い日に、アスファルトの道路などで、遠くに水があるように見える現象のこと。

あゝ、脱衣。【美味海鮮あり】

我々は遠慮がちに、そこそこ幸せな人生を送っている、と言います。
それは、幸せと不幸せでコラージュされた抽象画の中で
生きているということです。

抽象画は多少訓練されたチンパンジーであれば描くことが可能であることが実証されており、それ自体を高尚とする図太さも兼ね備えています。解釈の余白を堂々と押し付けてくる行為は、アバズレ的であり、我々は今日もチンパンジーが描いたかもしれない落書きを尊い人生と捉え、価値あるものだと思いたいのです。

 

写真集はどこから来たのか

アイドルは集団で歌って踊り、時々手を触らせてくれる美少女という職掌を負っていますが、その力はうまく幻覚を見せられるかに依存するといえます。仲間との友情、個人の努力、夢や目標の達成をいかに容易に見せられるか。いかに当人が、各ファンの要望するイマージュとなれるか。アイドルは偶像だとか嘘だとか、高みの見物が流行していますが、「※この物語はフィクションです」という注釈を華麗に消せることに感嘆する方が幸せだと思うのです。「私たちは今から、痛みに耐えて食肉になります!」と絶叫する牛を見たいでしょうか。タコには3歳児程度の知能があるといわれています。

甘みが適度にあり、醤油がいらないのでは?と思うほど。やはり名産地は別格。

友情/努力/勝利は並の人生にも存在する一方、その規模は耐えられないほど矮小なもの。高貴に頑張り容易に達成するアイドルと、低俗に怠け困難に挫ける自身との高低差を畏れながら推す、それは、真面目に遂行するなら精神的な自傷行為です。ならばと宗教のように、自身の生きる糧や行動指針を演者に丸ごと預けてしまう。これもまた、不透明な投資商品に全財産をブチ込むようなもので、跳ね上がれば良いが、暴落した時には全てを失ってしまう。ローリスク・ローリターンな、
アガった演者を推すことは逃げではなく、安寧の追求です。


少なくとも、痛みなくアイドルを摂取するためには糖衣が必要で、
すなわち人間へ引き摺り下ろすためのツールが必要です。

 

写真集は何者か

距離感を間違えれば娯楽とも銃口ともなりうるアイドルが、掛け値なしに人間に近い姿を見せてくれる媒体が写真集です。バッチリと決めて、企画がハマっているものは、雑誌グラビアに任せればよい。写真集は極論すればアイドルをロケバスや飛行機で遠くに飛ばして写真を撮り、それっぽいストーリーに当てはめて並び替えればよい。ボーナス・ステージであり、サイド・ストーリーであり、
アディショナル・タイムであり、商業から切り離された存在なのです。

 

人には物心両面での支援が必要です。ありがたくも、あまり欲を出さなければ衣食住に困ることは少ない。心は人間にしか無いので、人間を用いてしか埋まりません。そのため、孤独でも心理的な充実を図れる猛者を除けば、様々な関係の中でこれを埋める必要がある。オタクには彼女がいません。非常に語弊がある。ヲタクには彼女がいません。違います。魅力を認められない人間は、恋人が欲しいという欲求に対して常に不満足。一方、いた方が社会的に良いのでは?と狼狽える程度には真面目に育ってきただろうと思います。もしかしたら、オタクには彼女がいないとか言っている場合でもないのかもしれません。

ちょっと割高?だけど、身質は確か。でも、やっぱりちょっと割高なような。

そんな時の横道としての、写真集に包まれたアイドルの彼女感。写真には刹那性があるというのは、よく言われることです。アナログな写真は、過去に確実に存在した瞬間を時間の流れから切り出し、精製した空間を目の前に呈示することができ、そこに没入するというのは暫時、個人的な時間を過ごすに等しい。

親密な美少女との個人的な時間が突如、目の前に出現する写真集は、人間を原料とした粉塵で、疲労がポンと取れる不思議なお菓子で、孤独な現代社会で無視できない輝きを放つ福祉なのでした。

 

写真集はどこへ行くのか

写真集そのものは近く、暴れチンチン電車、彼女発セフレ行へと変貌し、穏やかな精神世界から脱出してしまうかもしれない。あまりに何か、性的な倒錯を感じます。紳士的に付き合ってきた異性を部屋に泊めて、何か身体が暖かいな、と思って目覚めてみたらフェラチオをされていたかのような。写真集はアイドルが、ようやく脱いでくれることが確定しているエロ本と化してしまう。性を纏ったアイドルの近くに柱が立てられていて、オタクは皆、柱に鎖で繋がれている。アイドルの脱衣カットは巨大な鉈として鎖を切り刻み、オタクは性を纏ったアイドルを貪ってしまう。

初めて自発的に酒と流し込んだ魚。脂が非常に良質で、もう一皿頼んだ記憶。

まず基本スタンスとして、成人女性が脱いだら、それはもう、エロでしょ。大人っぽいとか、ヘルシーな身体とか、知らないよ。ベッドの上のランジェリー姿を接写したら、別にもうそれはエロで良いでしょ。多分その後にセックスするでしょ。朝日の中でする微笑みは、セックスへの感謝と、来る日々への無根拠な期待でしょ。優しげに微笑みながら勃起を巧妙に隠すくらいなら、しっかりと目を血走らせながらチンチンをバキバキにするのが礼儀というものです。綺麗事なんか言っていられない。しかし最も見たいのは、写真集の中のランジェリーではなく、現場にてランジェリーカットを撮影する前の「あぁ、これからランジェリーカットの撮影かぁ」と、諦念を込めた溜息です。

 

脱ぐと、やはり良い宣伝になる。脱げば売れるならば脱ぐよね。
清楚路線を貫けよ原理主義者が1人買わなくなっても、
推しメンでシコれるチャンスだ!が10人買えば、
この子おっぱいデッカくてエッロ!が100人買えばよく、
お気持ち表明引用リツイートには、物事を変える力など無い。
一方、ちゃんと脱いでて、でも売れていない写真集もある?
現実は感情よりも残酷です。争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない。

 

そして、もうコスられすぎている。
あまりに喧伝され、皆で彼女感や脱衣を礼賛する行為は乱交AVのようなもの。プロモーションツールとして使われる笑顔や半裸には、既に手垢 (時々チンカス) が塗りたくられてしまっている。僕たちは、共有される像を見ながら一斉にシコりたいのではなく、密室にこもり、各々のドールを持って自由恋愛をしたいだけなのでした。着衣で差し伸べられる手にときめいてもよく、脱衣で迫る身体に欲情してもよく、推しメンの皮膚が世に晒されてしまったことに、終始頭とチンポを項垂れてもよい。

観光客向けかなぁと侮っていたら、意外としっかり美味しかったもの。

現実と需要が加速し、それが価値になる。いたずらに脱ぎ、写真集が優れた構成を失った時、それは彼女との旅行ではなく、セフレとの逃避行で、しかし街で男女とすれ違っても、それがカップルなのか、セフレなのかは分かりません。或いはそういうコンセプトで出してみるのも、悪くないと思う。セフレだって、立派な欲求で、健全な希求で、幸せがあるから。愛が存在してもしなくても、必死でも惰性でも、放たれる精液の成分は全く一緒だから。